私は自分が行動するとき
その行動を選択するときの心の動きに
とても敏感です。
ずっとそうなわけではなくて
時間をかけて、いつの間にか
感じるようになりました。
客観的に見れば
社会的に貢献している行動だったり、
努力とゆう自分の中にある概念を
自分なりに表現する言動だったり、
こうゆう人間だろうとゆう自分であったり、
当たり前にするべきだと感じていること(いただきますと言ったり、電車で席を譲ったり、人に優しくしたり)を当たり前にする自分だったり、
こうでありたい自分と
こう思われているだろう自分が
こうでいなくちゃいけない自分になり
これが自分なんだと思うようになり
いつのまにか、何も
感じられない自分になりました。
自分とゆうものが
本気でわからなくなりました。
今思うと自分で自分を生きてなかった。
たまにそうなるから
そうなったときは、自然体でいられる
空間を与えるようにしてますが😫
私はこう見えて
人の顔色や、人の言葉、
人からどう思われているかを
とてもとても気にしてしまう人間です。
昔から、人の感情の切り替えから
くる表情の変化や、声のトーン、
目の動きや、対応の変化に
めちゃめちゃ敏感で
自分の言動で、相手に不快な思いを
させてしまった時の表情や対応、
自分に嫌悪感を抱いているだろうと
自分が勝手に思う言動を、
ずっと忘れられなかったりします。
心から嫌われるのが怖いんです
こんな風に人の心の動きや、感情の波
それからくる行動などを敏感に
察知してしまうのに
自分の心の動きや、感情、行動には
全くもって理解がなく、理解していない
とも思っていませんでした。
「音楽が好き」な自分だから
常に音楽を聴いているのに、
気付けば歌詞やメロディーに
なんの感情も抱くことなく
曲が終わっていたり。
「努力ができる」=人よりたくさんの量、長い時間練習できる。だと思っていた私は、人と比べた自分の中にしか「努力」とゆう概念が存在していないことすら気付いていませんでした。
こういったことを自分で認知していく中で学んだことがあります。
全ての言動を自分自身がなぜしているのか、なぜするのか、理解した上でする言動じゃないと
それができなくなった時に
なぜできないのかわからなくなる。
本当の自分の思いがわからなくなる。
何かを継続することが難しくなる。
「三日坊主だから」で片付ければ
それで終わりかもしれませんが。
なぜ行動できないのか?
なぜ継続できないのか?
なぜ意識的に、自分を言い聞かせなくては、自分の身体はゆうことを聞かないのか?
そこを徹底的に深掘りした先に
自分の本心が見えてきたり、したな。
自分が継続したいこと、行動したいこと
の重要性を理解していない状態で
行う行動は、その場しのぎの充実感は
あっても本質的に自分のものにならない。
自分が達成したい
と思う目標に対しての手段が、
必ずそのために必要で、有効だと
自分自身が心から感じていること
がめちゃくちゃ大切だと思いました。
そこから生まれる行動は
なんだかとても密度が濃くて
地に足がついていて、ぶれないとゆうか
そんな感じがするんです。
継続が無意識的に行われるようになる
うまくいかないことすらも、
目標達成に向け
必要なものであると認識できること。
私はこれをずっとできなかったので、
こう思える自分が欲しいんですよ。
なぜ欲しいかとゆうと、
客観的に後退しているわけではなく
前進しているのにも関わらず
私は上手くいかなかったら
そのための行動が全部
間違っていたとゆう考え方で、
良いも悪いものすぐ手放しました。
これでは一歩進んで二歩下がる状態。
しかも一歩進んでみたことには目を向けず
結果だけみて、何も評価しない。
そうすると、どうなるか。
えっとね、振り返ると、なにもない。
何度も来る選択の場面で
自分自身に甘え出したりもしました。
ここで感じたことは
まず自分の声を無視せず
本当の思いを見逃さないようにすること
そしてその思いからくる
無意識的で自然な自分の行動パターンを
観察し、受け止め、評価すること
人間ありのままを感じられることほど
幸せな瞬間はないんじゃないかなーと
本当に思います。
だから常に本当の思いは逃がさない
ようにしたい。
自分は自分でしか生きられないのに
自分を見失い、
今ここに自分が居ないことは
とても悲しいです。寂しいです。
だから一度立ち止まってみます。
少しづつ進んでいますが、まだまだ
目の前が開けるにははやいかな☺️
naturally
オモウコトカキマス🤗
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